「山岳湿原のユスリカ幼虫群集: 局所群集構造に及ぼす環境要因と人口学的偶発性の役割」

 

冨樫 博幸(京都大学フィールド科学教育研究センター)

 

水界生物を対象とした群集研究では、構造決定に果たす生息場所の理化学的環境要因やそれらを背景とする競争・捕食などの生物間相互作用の役割を評価してきた。しかし、個々の生息場所の生物群集は独立したものではなく、生物の移動分散によって互いに結びついているため、他の生息場所からの移動・分散の影響を視野に入れたメタ群集として解析する必要がある。メタ群集に関する近年の理論では、生息場所内で作用する過程と生息場所間で作用する過程の相対的重要性から局所生物群集の構造決定機構を4つのパラダイムに類型化している。第1は生息場所内の環境要因の違いによって群集構造が決定される種選別パラダイム、第2は生息環境の影響は全くないが競争能力と移動分散能力は種間で異なり、偶発的な移出入が多様な群集構造を創出するパッチ動態パラダイム、第3は生息環境や種間相互作用による種選別だけでなく特定の生息場所間での生物の移出入が局所個体群の動態に支配的な影響を与える集団効果パラダイム、第4は生息環境の影響だけではなく競争能力や移動分散能力にも種間で差がなく、生物種の偶発的な移入と死亡とが異なる群集を形成する中立モデルパラダイムである。しかし、どのようなメタ群集でどのようなパラダイムの枠組みが重要となるのかは必ずしも明らかでない。

宮城県蔵王芝草平湿原(標高1600~1700m)には多数の池塘が点在し、その底泥や側壁面にはユスリカ幼虫が卓越的に生息している。それぞれの池塘は独立しておりサイズも小さいため、湿原全体をメタ群集とし個々の池塘を局所群集とした調査を容易にすることができる。そこで本研究は、芝草平湿原のユスリカ幼虫群集をメタ群集として捉え、各池塘における構造決定にどのような過程が強く作用しているのかを明らかにすることを目的に行った。

野外調査及び産卵・羽化トラップの設置による移出入の推定結果から、芝草平では、池塘の環境や景観上の位置がユスリカ幼虫群集の構造に作用するがその影響は比較的小さいこと、群集構造にはそれら決定論的な要因よりもむしろ偶発的に生じる各属の産卵量に強く影響されていることがわかった。この結果は、先に述べたメタ群集過程の中でも無作為な移入の過程を重視する中立モデルパラダイムやパッチ動態パラダイムの枠組みで芝草平のユスリカ幼虫群集の動態が主に説明できることを示している。ただし、ユスリカ幼虫各属の分布には水深や捕食者などの生息環境の影響が少なからず作用していることから、すべてのユスリカ幼虫が生態的に中立であるとは言い難い。よって、芝草平湿原における池塘ユスリカ幼虫群集は主にパッチ動態パラダイムの枠組みでその構造が決定していると言える。メタ群集という視点から生物群集構造を解析した研究によれば、その決定機構の多くは種選別パラダイムや集団効果パラダイムの枠組みにあり、中立モデルパラダイムやパッチ動態パラダイムにある無作為な移入によって構造が決まるような群集は少ないという。ただし、それらの結果は、ある時間断面(スナップショット)の生息密度や環境要因を統計的に解析することで得られたものである。本研究では、そのようなアプローチだけではなく、メタ群集を数年にわたって観察し、また産卵量を実際に測定することで、局所群集の変動の多くが無作為な産卵による移入によって説明できることを示した。したがって、同じ複数の群集を長期間観察して環境との変動を比較したり、移入量を直接調べたりする研究を行えば、偶発的な移入によって局所群集の構造が決定する中立モデルパラダイムやパッチ動態パラダイムの枠組みに当てはまるメタ群集はさらに多く発見されるかもしれない。特に、水生昆虫のように産卵を通じて新世代の移入が起こるような生物群では、そのようなメタ群集が多く見られる可能性があるだろう。