Kei Koba's weblog in CER, Kyoto University ~ Are we on the right track ? ~

| October 12, 2008 : Information for Prospective Students

環境について考えてゆく際に、generalistとなるか、specialistとなるか、という問題があります。最近では、T字型人間、そしてさらにはπ字型人間というように、広く浅く知識を持った上で、専門的に掘り下げることのできる人材が求められているのではないかと思います。

ところで、環境問題はEnvironmental problemではない、ということをことあるごとに僕は口酸っぱく言い続けてきたつもりです。環境問題というのはEnvironmental issueであり、おそらくEnvironmental problemというのは存在しないのではないかと思っています。issueという言葉は、これが人の介在する問題であることを示しているわけで、環境問題というのは、結局、人の問題である、だから人のことをどうしても考えなければならない、ということがこの「問題」を考えるときのとても大事な背景だと考えています。

つまり環境問題は、どのようなレベルであれ、自然科学的な側面と、そして、社会科学的、人間の心理・行動に関する側面を有しています。僕はこの数年は、自然科学的な側面から環境にアプローチしていますが、実際に環境をどうしてゆくか、と考え、行動していくときには、自然科学的な側面だけでなく、もう一つの、人間のこと、をしっかりと考えられるようになっていなければならないと思います。

その意味で、Tでは全く足りないのです。せめてπでなければ、自然科学的な視点と、社会科学的な視点の両方が最低限必要ではないかと思っています。

最低限、とあえて書いたのは、πという字が持つ2本の縦棒、2つの交わることのない、独立した視点をもっていても、新しい次元には至ることができないからです。問題は、では、異なる考えをどうやって融合し、新しいものに昇華してゆくか。たとえば、守るべき環境のフレーミングを考える際に、環境収容力の概念と、その土地に伝わる信仰の歴史をどうやって解け合わせてゆくか。こういったことが実際の環境問題に対峙してゆくときには必要なのでしょうが、そのようなことを体系立てて学ぶことのできる学問分野はまだ生まれていないと思います。

21世紀は不確実性の時代です。限定合理性を持ち出すまでもなく、我々は自分たちの価値判断、リスク管理を非常に不確実な情報を元に行っていかざることは明らかです。温暖化などの問題に対して、我々は不確実な状態で、しかし、何かしら、しっかりとした一歩を踏み出さなければならないのだと思います。21世紀に生きるということはそういったことなのでしょう。

そのときに、どのように判断できるか、どのように自分の決定に責任をとれるか、とれると思えるか。そのためにどのように考えるのか、その手がかりをつかもうと努力しようと決意し、努力を実行に移すことのできる人を僕は求めています。まどろっこしい言い方ですけれど。

先ほどのTやπの話でいえば、もう一度繰り返しをおそれずに書けば、πでは足りないのです。独立した2本の縦糸をどうやってつなぐか、どうやってより太い1本へとまとめてゆくか。そのための鍵の一つは、縦糸の中に紡ぎ混まれている「一般性」をひもとけるかどうかでしょう。自分のやっていることを、その分野の言葉だけでしか表現できずに終わるのか、全く別の分野との差違を際だたせつつ、奥底にある類似性を取り出し、安易な方法でなく、それぞれの長所がどのように存在しているのか、その存在様式をしっかりと顕在化できるようになること。そういったトレーニングが必要だし、そのためのトレーニングの方法を一人一人が考えてゆけるようになって欲しいと思います。専門バカという言葉がありますが、専門バカといわれる状態の専門性を2つも3つももっても仕方がないではないでしょうか?いい意味の専門バカは、specialistでありながら、そのspecialityからgeneralityへと至る道をしっかりと歩める人でしょう。そうならないといけません。GouldやSaganのエッセイからはその道を示す光が感じられるかもしれません。

自分に関係のある情報しか興味のない人が増えてきている気がします。この情報は自分に関係がある、だから聞こう!得よう!などとと判断している自分が、どれだけ未熟で物を知らず、想像力のない人間か、、を身にしみて知るようになればなるほど、そんな態度でははまずいと思うように僕はなりました。それでは、未熟な自分が描いた枠組みより自分が大きくなることは決してないからです。そんなことでは自分は全く成長できない。もっと自分の枠をはずして、いろいろなことに目を向けなければならない、僕の知らない、感知できない、わからないことが本当に本当にたくさんあるのだ、という本当に当たり前のことを考えるように促してくれたのは多くの友人たちです。そして、それを気づかせてくれるきっかけは、毎日、毎秒のように我々の周りに漂っています。音楽を聴いても、絵画をみても、食事をしても、本を読んでも、どこにだって。自分がそれを本当に受け入れようとするならば。

とはいえ、実際なかなかうまくいくわけではありません。自分の枠の小ささを自覚することは悲しいですし、感じられない物の存在を感じること、という時点で矛盾をはらんでいます。そして、そんな物の存在がもしもあるとしたら、どれだけたくさんのことを学ばねばならないのか、途方に暮れるだけです。

膨大な自分にとってのunknownな事柄で満ちあふれた大海を前にして、臆病になるのであれば、立ち去るべきです。そういった生き方もあるでしょう。言い訳さえしなければ僕は全く否定しません。飛び込まないといけないのはわかるけれど、あまりに大きすぎるという言い訳には、とにかく一歩前に進まなければ何も自分は進歩しないですよ、という当たり前のことを繰り返し言うだけです。20歳を過ぎた大人を大海にけり込むような失礼なことはしません。じっと見守るだけです。

しかし、残念ながら、大海に飛び込んだって、そう簡単に自分自身が変わることは決してありません。努力しても努力しても、その努力の仕方自体が間違っているかもしれませんし、そういった判断をできるだけの変化が自分に起こるまで何ヶ月もかかるでしょう。それを我慢できない人もいるのかもしれません。

でも、昔からそうだったはずです。受験勉強を思い出しても、数学なんて、最後の最後に、いろいろ習ってきた法則や公式が組み合わさって、複雑な問題が解けるようになったこと、断片的な歴史上の知識が、違う教科書を読み直すことでつながり始めて、初めて歴史の流れというような物が見え隠れしたこと。勉強し始めて結果が出始めるまで3ヶ月、とよく言われましたが、このような有機的なリンクがつながるようになるのは、受験の最後の最後にようやくちょっとだけ、、だったのが僕の経験です。ネットワーク理論を持ち出す必要もなく、感覚的にわかっているはずです。点(=断片的な知識)を増やしてゆくとリンク(=知識と知識の融合=理解)を増やしてゆくのが追いつかなくなるのは当然です。リンクがつながりきったときに、新しいネットワークの形が形成されますが、それまでは我慢の時期が長く続くはずです。ふっと、ああ、勉強してきたことがつながった、と思えるには、自分がぱっと予想する3倍くらいの時間がかかるのではないかしら、なんて思っています。

自分の考えはどうしても近視眼的になってしまいます。同じ物を他人は同じようにみることはないというごく当たり前のことに鈍感になりすぎてしまうのが、私たちなのでしょう。いや、少なくとも僕はそうです。その鈍感さを直すための、例えば芸術なのですが、、、自分の感受性の鈍り方には閉口します。

いろいろな知識を吸収して自分を成長させる、というような言い方に僕は違和感を感じます。成長というなにかターゲットがあって、という時点で、何か失う物が大きいような気がして。。。わけもわからないけれど、とにかくがむしゃらに勉強する、気づいたらちょっといろいろ世の中のことや、目の前の友人の心の動きがわかるようになってきた気がする、、、そんな感じが本当のところじゃないかと思うのですが。

目的を持った、目的の定まった勉強って、簡単なのです。テキストがあって、歩む道があって、それをとにかくがんばればいいから。いつかは必ず「成果」が上がるでしょう。でも、本当に学んで欲しいのは、それではありません。何を勉強して良いかわからないことをどう勉強するか、なのです。何をどう考えて良いのかわからない問題に対して、どう考えてゆけばいいかを五里霧中の中模索してゆくその試みなのです。

同位体比が測定できたって、雨の成分を考察することができたって、実はどうでも良いのかもしれません。「考える」ということをどうやって身につけるか、その方法を模索すること、そこまで還元できるだけの忍耐をもった人がきてくれると良いなぁ、と思ってます。しかし、その営みは、人それぞれです。教えることはできません(全く矛盾していますが)。結局、一緒に、真剣に物事に向き合ってゆくだけの覚悟ができている人が大切だということです。

みなさんは「知的好奇心」は人間の本能だと思いますか?人間が社会的動物であることは、人間の真の本能であると思いますか?そういうことを考えてゆくと、自分がどういった人間にならないといけないか、何となく覚悟が決まったりしないでしょうか、、なんて考える今日この頃です。

分属を希望する学生さんにつきましては、そうですね、、こばもだんだんここの感じがわかってきたので、今度の3年生にはちょっと高いレベルを求めてみようかと思います。せっかく11月から分属するのですからね。「あたりまえ」のレベルを強引に上げてみても良いかと。

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と、これを書いたのは、9/23でしたが、とても推敲する時間も、uploadなどする時間もなかったので、今になりました。もう分属希望はある程度決定されているでしょうから、こういうことを書いてもどうなのか、とは思いますけれど、一生懸命、読んでもわからないように書いたのであげておきます。アメリカでよくある"Information for Prospective Students"の内容とは全く違いますけれど、ま、許してください。何かいているんだかはちゃめちゃですけれど。

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地獄のような日々に、1日だけお休みがとれました(月曜日がお休みだということを忘れていたのです!)。昨日の夜から、竹内まりあの楽曲の裏にあるアレンジのすばらしさに感涙したり、堂島ロールに驚愕したり、いつも変わらないお茶やさんにいったり、いつもがんばっているハンバーガーやさんにいったり、handlingしなきゃならないpaperがいくつかあるな、、と思っていたら、みんなまだreviewがcompleteしてないのでまだdecisionまでは時間的猶予があってほっとしたり。

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ISI2008は、よくよく考えると夢のようでした。ずっとなんとかして何かの時に招聘したいと思っていたBrianやKarenが日本にきてくれましたし、学生さんたちにとっては、いつも論文や教科書でしかみない人たちが実際にきてくれていて、いろいろ話すチャンスもあったろうし(これが小さい学会の良いところで)、とてもよかったのではないかと思います。僕も和田さんのところにBrianが遊びに来てくれて、そのときのpresentationをみて、まったく完膚無きまでに打ちのめされて、でも、なんとかしなきゃな、なんて思ったことを思い出すと、やっぱりいろいろな人と刺激的に話すことのできる、こういった機会を教員としては学生にちゃんと作ってあげなければ、と思いました。大変、大変難しいことですが。とにかくY先生には感謝感激です。ISI2010はアムステルダムです。Karenが次も出るわといってくれたのが最高にうれしかったですね。。。新橋で一緒にホルモンをつついたのはなかなか渋かった。。つきあってくれたKくん、Mさん、ありがとう。

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そういえば、10月頭に、敏腕秘書と焼き鳥を青葉台で食べたけれど、おいしかった〜〜〜しんどい日々だったので焼き鳥がしみました。参加してくださった方々、どうもありがとうございます。

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来週はずっと木崎湖〜深見池です。24日の人間ドックまで、とにかく何とかして乗り切らないと。終電を確認する日々もあと少しで終わるはず。